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マージナルマンの視点ー自殺学の「窓」から覗く世界

6月、ボランティア先である日系カナダ人施設Momijiでのピアノコンサートイベントで『マージナルマンの視点ー自殺学の「窓」から覗く世界』の筆者である布施さんに初めてお会いしました。そして6月の下旬に、彼の雑誌の連載のためのインタビューをお受けし、再びお会いした際に頂いたのがこの本でした。

 

布施さんの専門である「自殺学」はとても興味深いものであったと同時に、語学、看護留学としてカナダへ来て感じたことに通ずる内容があり、読書感想として以下のレポートを記載しました。

 

マージナルマンの視点―自殺学の「窓」から覗く世界

マージナルマンの視点―自殺学の「窓」から覗く世界

 

 

 

 

 『マージナルマンの視点ー自殺学の「窓」から覗く世界』は、日本で生まれ育った筆者が、アメリカ、カナダで生活し、自殺学の実地調査や研究のため48カ国を訪問した経験を元に書かれている。

①自殺への認識の違い

 第1章では、世界の自殺の傾向や特徴について述べられており、自殺防止のためのサービスや機関は、必ずしも自殺発生頻度に比例しないとある。医療施設や民間施設が最も発達しているのは自殺高率国ではなく中率国であるアメリカやカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスである。私自身、カナダで1年弱生活をしていて気づいたことがある。それは地下鉄や駅構内に、自殺希望者へのコールサービスの広告が目につくことである。日本で23年間生活をしてきたが、そういった広告はほとんど見なかった。

 私は、これは日本の「恥の文化」からきているのではないかと思う。カナダで生活をしている中で、日本人は「shy」であり、自分の意見を言わないと多くの欧米諸国出身の友人から指摘されるが、全くその通りだと思う。多くの日本人は、他人からの視線を必要以上に気にするため、自殺念慮があること(多くの場合、精神障害を患っていること)や、そういった家族を持つことを恥ずかしいと思い、その事実を隠そうとする。行動基準の源がそういった疾患や疾患を持つ本人に意識があるのではなく、世間にあるのだ。そしてこれが、コールサービスやその他の自殺防止活動へのアクセスを遮断しているのではないかと思う。

精神疾患への誤解

 私の親戚は私が中学生の頃、精神病院に入院したことがあるが、両親はこの事実を私に口止めした。私たちは世間の精神障害患者に対する偏見があることを知っているため、隠すべきことだと認識しているのである。多くの人は、精神疾患患者のことをプレッシャーやストレスに耐えられなかった弱い人だと認識する傾向にあると思う。ここで私自身の看護の体験を紹介する。私は日本の赤十字病院の救急部門で2年間看護師として働いた。精神科がなく、精神科医が常駐しない病院だったため、ERに精神疾患を持つ患者が大量服薬等で搬送された場合、私の所属していた病棟に入院後、転院や退院するというケースが多くあった。意識障害があったり、身体症状の訴えが多かったり、対応に時間がかかる彼らの看護は、看護師にとって対応の難しい患者の1人であり、私や私の同僚の多くは精神患者への看護に対して苦手意識があった。ある日の休憩室での同僚の言葉で忘れられないものがあった。

「自分で薬を飲んで、救急車を呼ぶなんて、何がしたいのか分からない。私たちに迷惑がかかっている。死にたいなら死ぬべき。」

 明らかに、精神疾患への理解の乏しさ。そして、彼らを精神的に弱い人間だと認識していることからくる考え方だと思う。私は看護師として精神疾患について学び、精神疾患は誰もが罹患する可能性のある疾患で、脳の神経伝達物質が深く関与しているということを知っている。確かにその要因と考えられているものの1つに遺伝や性格も含まれ、それを「弱さ」と呼ぶ人もいるかもしれないが、私にとっての精神疾患に対する認識は「病気」−誰もがかかり得うる、治療するべきコンディションなのである。例えば、知人が癌に罹患したとする。癌の治療のために仕事を休み入院することに対して、ほとんどの人は当たり前の取るべき行動だと認識する。ただしこれが精神疾患だった場合、職場からの理解は得られづらく、その行動に疑問を呈する同僚や上司も出てくるだろう。私は、日本での自殺対応施設や防止活動の発展とともに、精神疾患への深い理解が必要だと思う。

③英語と日本語

 第3章には言語と文化についての記述があり、その中で筆者は日本語は英語に比べて心情的で雰囲気を作り出すのに適しており、対して英語は論理的に話を進めていくのに適していると述べている。英語は私の第二言語であるが、英語の方が私の伝えたいことを伝えられると感じる時があるのはこれが理由だと思う。

④日本の文化 男女差別

 日本語と英語の違いという視点から、文化的な違いを垣間見ることもできる。時にことわざ(proberb)は古くからの教訓や知識が語り継がれてきたものであり、時に文化の違いをはっきりと表していると感じることがある。例えば「秋茄子は嫁に食わすな」。諸説あるものの、秋茄子は美味しいので嫁に食わすのは勿体無いという解釈をする人もいる。カナダ出身の友人にこのことわざについて話した時に、日本の男尊女卑の文化について指摘されたことがある。そして私自身、無意識のうちに男女不平等に繋がる可能性がある発言を、平気でしていることにカナダに来てから初めて気付くことができた。例えば、私がオーストラリア出身の友人に、「嘘つき」という意味のあるスラング「full of shit」を教わった時、私は彼に「女性はその言葉を使うことができるのか」と聞いた。何故なら、私にとって汚い言葉(ここではshit)を使わないことは大切なマナーの1つであり、女性は男性以上に気を遣わなければならないと思っているからだ。しかし彼にとってこの質問は理解できないものであり、「何故女性は使うことができないと思うのか」と質問を返された。彼にとってそこに男女差はなく、使うシーンさえ考えれば、女性のみが言うことができない言葉はこの世に存在しないのだ。小さい頃から、女の子は女の子らしく、男の子は男の子らしくと育てられ、汚い言葉を使わないこと、女性らしく振舞うことはとても大事だと教わってきた。学校でも、力仕事は力の強い男子にお願いする先生がいたし、そのことに対して疑問に思う人は誰もいなかった。確かに男性の方が筋肉量が多いなどの生物学的な違いもあるが、例外の人もいる。そしてその例外に目を向け、一人一人が気を遣っていかなければ、全員が心地よく過ごす空間はできないのである。先進国でありながら、男女格差ランキングにおいて144カ国中114位(2017年)という位置にいる日本は、今後の男女のあり方についても考え直す必要があると考える。

⑤民族的マイノリティー

 カナダには200を超える民族があり、様々なバックグラウンドを持つ人々が生活している。もちろん宗教も様々であり、例えばクリスマスシーズンには「Marry Christmas!」という代わりに「Happy Holiday!」というのが一般的である。私のカナダ人の友人の中には、こういった対応を全てに対してしていたら限がない、マイノリティーもそのことを理解するべきであると、この「気を遣いすぎる」文化に対して疑問を持つ人もいる。しかし、日本でNPO法人に勤め、社会的企業を目指す知人が言った「それは自分がマジョリティーの中にいるからこそ言えることだ。」という言葉を聞いてすごく納得することができた。日本に住むほとんどの人は、自分たちを単一民族だと思い込み、在日外国人について意識をする人は少ない。しかし日本にも在日韓国人在日朝鮮人等の少数派は存在し、民族の違いだけではなく、LGBTなどの性的少数者も多くいる。日本という単一民族だという思い込みで成り立っている国に住んでいるからこそ、マイノリティーに目を向けることが大切であると、移民で構成される国カナダで過ごし気付くことができた。

日本国憲法

 第4章では、筆者の体験について書かれており、その中でとても興味深いものがあった。それは筆者が翻訳の仕事をしている時に聞いた、戦後に国連軍最高司令官として日本へ来たマッカーサーの以下の言葉である。

「日本は絶対に平和憲法を守り、再軍備などはしてはいけない。あの9条は世界の憲法史においてその類例を見ない素晴らしいものだ。日本が世界に誇りうるものの一つは、どの国にも先駆けて、軍事力と交戦権を放棄したことである。」

 私の伯父は活動家であり、東京都でデモがあれば滋賀県から出向いたり、SNSで政治等について意見を発信している。そんな親戚を身近にもちながら、恥ずかしながら憲法9条や憲法改正について調べ、友人とこの話題について話したのはこの本がきっかけであった。私は憲法改正に反対である。自衛隊存在に賛意を示しつつ、自衛隊保持は違憲だと認める人々の中には、自衛隊について憲法に明記をすることで自衛隊の不名誉を解消することができると考えている。しかし、自衛隊の保持を憲法上認めるということは、憲法9条2項に真っ向から対立することになり、「戦力の不保持」「交戦権の放棄」という憲法の肝を失うことを意味する。憲法9条の1項、2項を残し、自衛隊について新しく憲法に明記したところで、自衛隊違憲性が解消されるわけではなく、さらなる矛盾をきたすことは明白である。そして現実の運用においては今以上に、2項が無効化される可能性も大いにある。そしてこの無効化はフルスペックの集団的自衛権を認め、他国とともに海外に軍隊を送り、武力行使をする可能性や、その反動として日本でテロが起きる可能性をも生むのである。

 憲法9条の改正が何を意味するのか、想像すらしたことがない日本人は多いと思う。本の中にこの事実を表す一文がある。筆者の知人が言った「日本人は国民としての意識は強いが、市民としての自覚は薄い」という言葉である。私を含め多くの日本人は愛国心が強く、日本以外の国籍を持つ友人が、日本人はとても謙虚で、我慢強い、協調性があると褒めると鼻高々である。そういった日本人のほとんどが、今まで日本人がどんな間違った選択をしてきたのかということを知らない。この日本人の特徴は、周りに合わせて考え行動することこそが大切であるという集団意識の高さからきていると考える。そして、他人と違う行動をする人は「出る杭は打たれる」という言葉通り、損をする場合が多いと多くの日本人は信じている。この日本人の愛国心と集団心理は、戦中、天皇に絶対的な忠誠を誓うことにつながり、戦争反対ということも、死にたくないと家族に言うことも許さなかった。第3章に記載されているように、非人道的な命令にも従い、敵軍捕虜に対して日本軍人が暴力を振るうという結果をも生んだのである。筆者が本中で述べている通り、「個人の良心が集団の道徳に反抗しなかった」という歴史があるという事実を、日本人は忘れてはならない。「市民」として、個々が意見をもち、政治的発言をしていかなければ、戦時中に起きたような非人道的な出来事が繰り返される可能性があるのだ。

⑦まとめ

 驚くことに、日本を飛び出したことで、日本や日本人である自分がよく見えるようになった。多民族国家であるカナダへ来て生活し、自分の中の当たり前の概念は壊され、他の視点から物事を見ることの大切さを学んだ。そしてまさにこれが、筆者のいう「バイカルチュラル」になること、「複眼視的視点」をもつことなのだ。カナダでこの本と筆者に出会い、自分の意見を整理する機会に恵まれたことは、私の人生における1つの大きな財産である。