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宗教、自死、精神障害について

海外にいると、やっぱり日本以上に宗教について考える機会がありました。私のクラスメートにも敬虔なイスラム教の信者の方がいて、お祈りのためにクラスを休んだり、別のクラスメートを週末の1泊2日の旅行に誘うと日曜のミサは絶対だからと一緒にいけなかったり。

 

今までの知り合いに宗教に熱心な人がいなくて、ほとんど全て初めての体験。

 

友達と、もし宗教を一つ選ばないといけないなら何を選ぶ?っていう話になった時に、私も彼も仏教を選んだのだけど、(本当は他と比べて選べるほどの知識はないのだけど。笑)

私の理由は、小学生の時にお葬式で聞いた法話で、四苦八苦という仏教用語についての説明を聞いた時、まさか昔の偉い人が人生のことを苦ばっかりだって言ってたのは衝撃的だったけど、今思うと、なるほど的を射てるなと思うから。

彼の方の理由は、キリスト教とか他の宗教は自死を罪としてるけど、仏教は自死を罪としてないという理由。

 

仏教の中にも宗派があるからそうでない宗派もあるのかもしれないけど。調べてみると、悪には世俗的な意味での悪と、仏教的な意味での悪があると。世俗的な悪はそれを犯した後に自分に苦しみをもたらす行為。嘘をつくだとか、盗みとか。仏教的な悪は涅槃(煩悩の炎を消すこと)への道を妨げること。

 

まず、自殺は、既に苦しんでいる人が苦しみから逃れるためにすることだから世俗的な悪ではないし、自殺と煩悩はどう考えても繋がらない。(むしろ、生きているからこそ煩悩が出てくるのだと思う)

自殺を正か悪かを説くのは、やっぱりするべきではないなぁと思う。だから仏教のこういう考え方は好き。 自殺を肯定しているわけではないけど。

 

 以前テレビで摂食障害についてやっていた時のことを思い出した。

思春期の女の子が父親からの何気ない一言でダイエットをはじめ、元々勉強も運動もできた完璧主義の彼女は痩せこけ、自分で食べても食事が吸収できなくなり、同級生が大学に進学している中、自分は病院にかからなければいけない辛さ。その他の病気にかかった時とは異なる自分の行動のせいで家族にも迷惑をかけているという自責の念。将来が見えない辛さ。健康に関する不安。その子のカウンセラーの人が、母親へ「自殺したいという思いを無理に止めることは、その人が死よりも辛いと思ってる生を押し付けてること」って言っていて。

その通りだ、と思った。

働いてた時に拒食症で30代女性で体重20キロ代、寝たきり、低栄養に低血糖、高度の脱水で重度の腎不全の人をみたけど、ここにくるまでにどれだけ悩み、自己嫌悪に陥り、不安だったのかって想像を絶するんだろうなと思ったことを思い出した。

 

私も、高校生の時は診断こそされてないけど多分軽い摂食障害で、不健康でも痩せてる方がいいと思ってたし、身体醜形障害も少しあったんじゃないかと振り返る。

高校生の時は毎日マスクつけて登校してたし、ご飯食べた後に罪悪感で泣いたり、こんな顔で外に出れない!って母に泣き叫んだり。笑

 

私の例なんか、本当に苦しんでる人たちに比べたらきっとすごく軽いけど、少し似た経験がある分、感情移入しやすいというか。毎度、自分にも起こり得たことだなぁと思う。

 

誰にでも起こりうることなのに、誰もが「まさか自分には起きない」と思ってる気がしてならない。現在、精神障害を抱えてる人だって、まさか自分がなるとは思ってなかっただろうし、未だにまさか自分がなってるなんて、と思いながら過ごして、気づいていない人もいるだろうな。一種の防衛機制なんだろうし、ある程度は仕方ないんだろうけど、その事実を否認し続ける先にあるのは、精神障害=普通ではない、弱い、愚かっていうマイナスイメージなのかなぁと思う。

 

 

 

最近落ち込むことがあって(記事の内容には関係ない)暗い記事になったけど、なんか文章を書いてくと気分が落ち着いた気がしたー。

あまり言いたいことをわーっとかけないから、ニックネームとかつけてブログやりたい。また考えよう。